SFファンのブログですが、宇宙、歴史、人物などもとりあげています…
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宇宙開発の歴史 Part 2: 米ロの熾烈な開発競争
2011-05-31 Tue 22:06
 前回は人類初の地球周回宇宙飛行を果たしたボストーク1号とガガーリン中尉の話しをベースに書きましたが、今回は、このボストーク1号の前後に渡って宇宙開発史を顧みたいと思います。


米ソの宇宙開発競争

米国、ソビエト連邦(現在のロシア)とも、第二次大戦中にV2ロケットなどを開発したヴェルナー・フォン・ブラウンなどの優秀なドイツのロケット科学者をドイツの降伏後にそれぞれ自国へ連れて行き、ロケットの開発を進めました。


V2ミサイルは英国を恐怖の底に落とし入れた。
v2jk.jpg


V2の発射を撮影した記録映画


第2時大戦後、世界は米国を盟主とする資本主義・自由主義陣営(西側陣営とも呼ばれた)とソ連を盟主とする共産主義・社会主義陣営(東側陣営)に分かれ、一触即発の緊張した時代が続く冷戦時代に入りました。
両陣営とも、いかに自分たちの思想・主義体制が優れているかを相手陣営に対して宣伝するのに躍起になり、そのプロパガンダの有効な手段の一つとして使われたのが宇宙開発競争でした。
また、宇宙開発技術は、そのままスパイ衛星や大陸間弾道核ミサイルなどの技術において敵陣営より優位に立つことを可能とすると両陣営とも考えたため、宇宙開発はそれこそ凌ぎを削る激しいものとなりました。


フォン・ブラウンなどのドイツの優秀なロケット技術者の多くを自国に連れて行ったこともあり、米国は自国の宇宙開発技術はソビエトのよりかなり優位にあると考えていましたが、その優位性は1957年10月4日にソビエトが世界初の人工衛星「スプートニク1号」(Спутник-1、спутник)を打ち上げたことであわくも崩れ去りました。
スプートニクショックと呼ばれ、大きなショックをあたえたこの出来事は、この時期に、やはりソ連が戦略弾道ミサイル搭載潜水艦(ホテル型)を米国にに先駆けて配備するなど軍事技術でアメリカが圧倒される出来事が相次いでいたこともあり、西側陣営に大きな危機感をもたらしました。


世界初の人工衛星スプートニク
sputnik (1)


ソ連が開発・就役させた世界最初の弾道ミサイル搭載原子力潜水艦
1.jpeg



スプートニクは、直径わずか58cmのアルミニウム製の球体ボディに4本のアンテナがついているだけで重量は84kgという、現在の技術から見ればちゃちな人工衛星でしたが、スプートニク1号に対抗すべく、1957年12月6日にケープカナベラル(現ケネディ宇宙センター)から打ち上げる予定であったテスト衛星”グレープフルーツ”(重量1.36Kg)のヴァンガードTV3ロケットは発射2秒後に爆発してしまい、アメリカの宇宙開発計画始まって以来の大失敗に終わってしまいました。



grape.jpg



結局、米国が最初の人工衛星”エクスプローラー1号”を打ち上げたのは、1958年1月31日にケープ・カナヴェラル基地より発射されたジュピターCロケットによってでした。ちなみに、エクスプローラー1号が打ち上げられた年は『国際地球観測年』であったこともあり、同衛星には宇宙線計測用のガイガーカウンターが搭載されており、エクスプローラー1号の観測データからジェームズ・ヴァン・アレンは地球を取り囲むヴァン・アレン帯を発見しています。


vanaren.jpg



ソ連のロケット技術開発と宇宙開発計画も米国同様、ナチスドイツのロケット開発計画に参加し、第二次大戦後ソ連に連行されたドイツ人科学者たちの協力の下で進められていました。一説では、米国は1600人、ソ連は5000人のドイツ人科学者をそれぞれ自国へ連行したと言われています。当然、これらのドイツ人科学者全員がロケット関連技術者ではなかったにせよ、かなりの人数のロケット技術者が当初の米ソ両国の宇宙開発計画にたずさわったことは確かです。
しかし、1955年頃からはソ連では同国生まれの科学者が中心となって宇宙開発計画を進めるようになっており、ソ連で「ロケットの父」と呼ばれるツィオルコフスキー((Константин Эдуардович Циолковский:1857年-1935年)から派生するロシア独自の理論的発展を元としてロケット開発を進めていました。ちなみにツィオルコフスキーはすでに1920年代に多段式ロケットジェットエンジンの理論を完成させ、世界で初めて宇宙ステーションを考案しています。


ソ連の「ロケットの父」ツィオルコフスキー
satelite.jpg



ツィオルコフスキーの跡を継ぐ形でソ連の宇宙開発計画の発展に大きな貢献をしたのがセルゲイ・コロリョフ(Сергей Павлович Королёв:1906年-1966年)で、第1設計局の主任設計技師ですが、コロリョフ・セルゲイは米国のヴェルナー・フォン・ブラウンと並ぶ、ロケット技術開発指導者です。
ちなみに、ソ連の第1設計局とは単なる宇宙船設計所ではなく、ソユーズ宇宙船、人工衛星、宇宙ステーションのモジュールなどの設計・製造を行った会社の名前であり、米国の航空会社に等しいものです(注:ソ連には第一設計局のほかにも多くの宇宙船設計・製造会社が存在した)。



人工衛星の打ち上げによって、宇宙ロケットの技術が確立されると、次は人間を地球周回軌道に打ち上げることが目標となりましたが、無人の人工衛星から一挙に有人宇宙船を打ち上げるわけにはいきません。
まずは動物を使ったテスト打ち上げが行われました。中でも有名なのがスプートニク1号打ち上げの一ヶ月後に打ち上げられたスプートニク2号に乗ったライカでしょう。ライカは世界初の地球周回軌道を回った動物となりましたが、生存カプセル(キャビン)の欠陥により(加熱とストレス等が原因で)打ち上げの数時間後には可哀想に死んでしまったそうです。


スプートニク2号の先端部分(左)と動物用カプセル(左)
sputnik (2)

キャビンに入った状態のライカ
raika.jpg


その後、1960年に8月19日にソ連はスプートニク5号(コラブリ・スプートニク2号とも呼ばれる)で動物を周回軌道に打ち上げ無事に地球に生還させることに成功し、人間を乗せた宇宙船を打ち上げるために必要な諸テストを実施しました。
ソ連はスプートニク5号の成功から、同年中に人間を軌道上に送り込むことを計画していましたが、テスト用に打ち上げたロケットの爆発事故の発生などから、有人ロケット打ち上げ計画は数ヵ月の遅れをきたすこととなります。
そして次の年、1961年4月12日についにユーリイ・ガガーリンを乗せたボストーク1号を地球周回軌道に打ち上げ、ここに人類で最初の宇宙飛行を達成したことは前回このブログで取り上げたとおりです(関連記事を読む)。


コラブリ・スプートニク宇宙船を搭載したR7ロケット
R-7-1.jpg


アメリカはソ連のスプートニク計画に対抗して1958年に有人宇宙飛行プロジェクト「マーキュリー計画」をスタートさせるとともに、それまで陸海空の3軍で別々に行っていた宇宙開発を統合し、アメリカ航空宇宙局 (NASA) を創設、宇宙開発プロジェクトを一本化し、国力を挙げて宇宙開発事業に取り組むことになります。
ガガーリンの宇宙初飛行から23日遅れた1961年5月5日、米国はようやくフリーダム7でアラン・シェパードを宇宙へ送り込むことができましたが、これは飛行時間わずか十数分間という短時間の弾道飛行にしか過ぎず、実際に米国が初めて人間を地球周回軌道の送り込んだのは、1962年2月20日のジョン・グレン中佐搭乗のフレンドシップ7によってでした。


「フレンドシップ7」の名前は米国最初の宇宙飛行士が7人であったことからつけられた
friend7.jpg


レッドストーン・ロケットによって打ち上げられたフリーダム7の記録動画 見ごたえがあります



マクドネル社製マーキュリー宇宙船 

Mercury_Spacecraft.png


写真を見るとマーキュリー宇宙船の小ささがわかります
mercury.jpg


ソ連はさらに1962年8月11日から15日にかけてボストーク3号と4号を同時に打ち上げ、世界初の宇宙船のランデブーテストを成功させました。また翌年の6月には世界初の宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワをボストーク6号で地球周回軌道に乗せました。テレシコワは”ヤーチャイカ(私はカモメ)”のコードネームでたいへん話題になりました。


月探査競争


米国とソ連の両国がそれまでに達成した宇宙開発の成果はそれぞれの国民に大きな誇りをあたえましたが、自由主義陣営と共産主義陣営のイデオロギー対立が激しいため、どちらかの国が月に人間を送り込むまでは宇宙競争はストップすることはできませんでした。そして、人間による月面到達という目標達成に向けて、まず無人探査機が月に送り込まれ上空から写真撮影などをして、人間が安全に月面に着陸できるかどうかの調査が米ソ両国によって行われました。

ソ連がスプートニクで世界で最初に人工衛星を飛ばせたことに対抗し、米国は先に述べた「マーキュリー計画」で有人飛行においてソ連の先を越そうとしたほか、月探査機プロジェクト「パイオニア計画」をスタートし、ソ連より先に探査機を月に送り込もうとしましたが失敗が相次ぎ、その間にソ連はやはり3回連続でロケットの故障により月探査機の打ち上げに失敗したものの、1959年1月2日に「ルナ1号」の打ち上げに成功し、世界で初めて月周回軌道に探査機を投入することに成功しました。米国は今回もソ連の後塵を拝し、ようやく1959年3月3日にパイオニア4号を月に送り込むことに成功(月表面から6万kmの所を通過)しました。

初めて月軟着陸を行ったルナ9号本体と軟着陸機
luna_9_unk_big.jpg

luna9.jpg




ソ連は続いて1959年9月4日の「ルナ2号」を月面衝突させることに成功し、世界で最初に月に人工物を送り込みました。さらに1959年10月4日には「ルナ3号」による月裏側の撮影、その後、数年の期間をおいて1966年2月3日には「ルナ9号」が世界最初の月面軟着陸に成功していますが、これはあとに述べる米国の「月有人飛行計画」(後のアポロ計画)発表によってソ連が再び月へ関心を向けたためです。

米国のパイオニア計画は4号がはじめて月探査に成功した後、5号以後は太陽系の惑星探査に切り替えられ、パイオニア計画に代わる3つの計画を開始させました。
月面の写真を接写する「レインジャー計画」は1959年にスタート。1961年に2機、1962年に3機がいずれも失敗したあと、1964年から1965年にかけての7号から9号が月クレーターなどの撮影に成功。
また、月面の地図を製作するための「ルナ・オービター計画」では1966年8月から1967年8月にかけて合計5機が打ち上げられ、いずれも成功に終わり月面の99%におよぶ高解像度の写真が撮影されました。
月面に軟着陸し遠隔操作で月面の土壌の硬さや組成などの探査を行う「サーベイヤー計画」は1966年5月から1968年1月に掛けて7機が打ち上げられ、5機が着陸と観測に成功しています。
いずれも、アポロ計画で有人宇宙船が安全に月軌道に到達し着陸するための技術の試験や、安全な着陸地点を探すことが目的でした。

アポロ12号乗組員によって撮影された月面のサーベイヤー3号
Surveyor_3_on_the_Moon.jpg


NASAの創設


1958年10月に正式な米国連邦宇宙開発機関としてスタートしたNASAは、直ちに46年の歴史を持つNACAの組織(従業員8千人、年間予算1億ドル、ラングレー航空研究所、エイムズ航空研究所、ルイス飛行推進研究所などの主要な研究施設などをそのまま受け継ぐとともに、フォン・ブラウン博士が所属していた陸軍弾道ミサイル局と、海軍調査研究所も吸収しましたが、ソ連との宇宙開発競争にあたってもっとも重要な貢献をしたのは、かつて第二次大戦下のドイツにおいて、フォン・ブラウンに率いられたロケット計画で開発された技術でした。また、カリフォルニア工科大学が運営していたジェット推進研究所(Jet Propulsion Laboratory)もこの時期にNASAの指揮下に入っています。

さらに1961年の5月には、ケネディ大統領はアメリカ連邦議会特別両院合同会議において、”今後10年以内に月に人間を送り込む計画を発表します。いわゆる『アポロ計画』です。
ケネディはこの公約でもって、それまではただの月軌道周回計画でしかなかった内部検討を月面有人到達計画に大転換させたのです。

ソ連も米国の『アポロ計画』に遅れをとるまいと、一人乗りであったボストーク宇宙船を3人乗りに改良したボスホート宇宙船を製造し、1964年10月12日にボスホート1号を打ち上げました。同船は折から開催中だった東京オリンピックにメッセージを送っています。
さらに、1965年3月18日に打ち上げられたボスホート2号では世界最初の宇宙遊泳(船外活動、EVA)がアレクセイ・レオーノフ飛行士によって行われました。
宇宙船のランデブー&ドッキング技術や船外活動は、月に人間を送り込むために不可欠な習得技術なのです。ボスホート計画は6号で打ち切られ、その後、ソ連の有人宇宙船はソユーズに切り替えられていくことになります。

製造中のボスホート1号宇宙船
voskhod-1_production_1.jpg

初の宇宙遊泳を実現したボスホート2号(上部の白い筒が伸縮性のエアロック)
voskhod-2__1.jpg



米国のマーキュリー計画は所定の目標(人間を地球周回軌道に到達させる)の達成後、月飛行に必要な種々の問題を解決し実験を行うための「ジェミニ計画」がスタートしていました。
宇宙開発技術で次々とソ連に世界初の成果を先取され、1962年から開始した2人乗り宇宙船の「ジェミニ計画」もかすんでしまったようにみえた米国でしたが、ジェミニ計画は順調に進み、1965年3月23日にはガス・グリソムとジョン・ヤングの両飛行士を乗せたジェミニ3号が地球を3周しています。
以後、9回におよぶ有人飛行で、軌道飛行と生命維持装置の技術、すなわち月着陸に必要な長期宇宙滞在の実験、宇宙船2機によるランデブーやドッキングテスト、燃料電池や姿勢制御のテスト、船外活動、帰還予定地点への確実な着陸技術などを着実に積み重ねて来ており、ソ連の次世代宇宙船ソユーズに搭載される予定の技術をすでに全てクリアし、米国がソ連を追い抜く準備は着々と進んでいました。



ジェミニ6号
gemini-6__1.jpg

ジェミニ6-A号と7号の間で行われた米国初のランデブー
gemini-6__2.jpg

ジェミニ4号ではホワイト飛行士によって米国初の宇宙遊泳が行われた
gemi.jpg

マクドネル社製ジェミニ宇宙船
Gemini_spacecraft.jpg


Gemi_Arrangement.png

ジェミニ宇宙船の計器盤
gem_keikiban2.jpg


ジェミニ6Aを搭載して第19A発射台から離床するタイタンII GLVロケット
Gemini_VI_Launch.jpg




一方、ソ連は「ボスホート計画」につぐ「ソユーズ計画」を1964年8月に承認し、革命50周年にあたる1967年に有人月周回を、また1970年には月面着陸を目標としていました。
しかしながら、1967年4月、ソユーズ計画最初の一人乗りソユーズ1号は打ち上げ・地球周回飛行に成功した後、大気圏再突入したが、着陸用パラシュートが開かずに地面に墜落。ウラジーミル・コマロフ飛行士は死亡しました。
1967年という年は米ソ両国にとってアンラッキーな年だったようで、米国でも同年1月の27日に地上訓練中のアポロ1号のキャビン内部で火災が発生し、船内にいた3名の宇宙飛行士が死亡する事故が起こっています。

初期のソユーズ宇宙船(Soyuz 7Kと呼ばれるタイプ)
soyuz7k.jpg



ソユーズ宇宙船は機体前方から見て、ほぼ球形の軌道船 (Orbital Module)・釣鐘型の帰還船 (Descent Module)・円筒形の機械船 (Service Module) の3つからなっており、アポロ宇宙船とほぼ同じです。3つのモジュールのうち地上に帰還するのは帰還船のみで、他のモジュールは再突入の際に切り離して大気圏に突入して燃え尽きます。



LOK2.jpg


soyouz.jpg



267-3.jpg


1 アンテナ無線システム
2 ソーラーパネル
3 アンテナシステム、無線テレメトリ
4 照明
5 スター望遠鏡オリオン
6 空気再生装置
7 カメラ
8 カメラ
9 生物研究装置
10 食品用冷蔵庫
11 スリーパー
12 水システムのタンク
13 廃棄物の収集
14 エンジンの向きシステム
15 燃料タンク
16 衛生ノード
17 センサ
18 トレッドミル
19 デスクトップ
20 中央制御装置
21 シリンダ圧システム
22 レチクルの宇宙飛行士
23 推進システム


機体の大きな特徴は機械船の側面に二枚ついた太陽電池パネルであり、宇宙空間で自力発電することによって使用電力を補っている。

soyuz_7k-ok-a__1.jpg


ソユーズ宇宙船内部
soyouz_interier.jpg

ソユーズ宇宙船の打ち上げに使用されるA-2型ロケット(正式名称は11A511)
Soyuz_rocket_ASTP.jpg


A-2型ロケットのエンジン 周囲が第1段、中央が第2段
Soyuz_rocket_engines.jpg

レール上を発射台に向かうソユーズTMA-3打ち上げ用のソユーズロケット

Soyuz_tma-3_transported_to_launch_pad.jpg




宇宙空間を飛行中のソユーズTMA-7(2005年に打ち上げられた国際宇宙ステーションへの飛行)

Soyuz_TMA-7_spacecraft480.jpg


いよいよ次回は、アポロ11号による、人類初の月への有人宇宙飛行にいたるまでのストリーです。




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