SFファンのブログですが、宇宙、歴史、人物などもとりあげています…
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世界最大の祭り- ブラジル・カーニバルの歴史 ②
2010-02-06 Sat 05:33
庶民のカーニバル


リオデジャネイロやサンパウロで行われる華やかなカーニバル・パレード(ちなみに、カーニバル・パレードのことをブラジルでは”デスフィーレ・デ・カルナヴァル=Desfile de carnaval”と言います)は、実際はパレードをする側=エスコーラ・デ・サンバとパレードを観る側=観衆に分かれていて、観衆は大いに声援を送り、エスコーラのパレードが抜きん出ている場合は総立ちでその素晴らしさを称えますが、あくまでも受動的に観るだけという立場は変わりません。
その意味では、町の通りで誰もが参加できるカーニバルの方が本来のカーニバルの精神を受け継いでいる言えるでしょう。
ということで、豪華絢爛なカーニバル・パレードの次は、伝統的なカーニバル、つまり庶民のカーニバルを見てみましょう。


カーニバルを楽しむフォリオン(後述)たち
foliao.jpg


仮面をつけたり、テープや紙ふぶきをなげたりして楽しむ庶民のカーニバル
confetes.jpg


ストリート・カーニバルではそれぞれが自由な仮装をして楽しむ
ca.jpg



ストリートで楽しむカーニバルは、ポルトガル語でも読んで字のごとく「カルナヴァル・デ・フア=Carnaval de Rua(通りのカーニバル)」と呼ばれ、ほとんどの町で行われます。もちろん、中にはオリンダ市(ペルナンブコ州)やサルバドール市(バイア州)などのように100万人とか200万人とかが参加する大規模なものもあります。当然、このようなストリート・カーニバルは他所からカーニバルを楽しむ(踊る)ためにくる者が大勢参加するのですが、このようなカーニバルでは「トリオ・エレートリコ」と呼ばれる、10万ワットから15万ワットの出力をもつアンプと大スピーカーを搭載した移動ステージとでも言えるものが使われ、人気アシェー・シンガーが「アシェー(Axe)ミュージック」と呼ばれる、テンポの早いリズム感のある曲を歌い、群衆はそれに乗って踊る(たんにぴょんぴょん跳ぶだけ?)のです。


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世界最大の祭り- ブラジル・カーニバルの歴史 ①
2010-02-05 Fri 05:17
今回は、世界最大の民衆の祭り、ブラジルのカーニバルの歴史特集です。
ブラジルの人口が1億8千万人として、その3割がカーニバルに直接・間接に参加するとしても5千4百万人。
おれにTVで見物する人数が軽くみて5千万人はくだらないから、合計で1億人以上がカーニバルを楽しむのですから、文字通り、世界最大のお祭りですね。



カーニバルの歴史

 カーニバルの起源(ルーツ)は、春の儀式を行なっていた古代ローマ人とギリシア人に遡ります。 一説によれば、カーニバルの語源は“carnem levare=肉を絶つ”であり、それが時代を経て11世紀から12世紀に“carne vale=肉よさらば”と変わり、四旬節(ブラジルではクヮレズマ=Quaresmaと呼ばれる)、つまり肉食が禁じられた時期に入ったことを示す言葉となったようです。
興味深いのは、中世においてカトリック教会は全ての異教徒を抑圧しようとしましたが、この儀式のためにうまくいかなかったそうです。 それ故、神への感謝の行事として、カトリック教はカーニバルの儀式を教会暦に取り入れるようになりました。 カトリック教会が異端の宗教のスタイルとか祝日を取り入れるということは別段目新しいものではなく、外国の風景をみればイスラム教風のドーム式屋根をもつカトリック教会が見えますし、クリスマスも異教の祭日にキリストの生誕日を合わせたことは周知の事実です。
カトリック教会は、カーニバルを暦に導入するにあたって、厳しい断食、または肉食が禁じられる「四旬節」の期間を迎える前に”代償的”に楽しめるイベントを大衆にあたえようと考えて導入したそうです。

ポルトガル王家はナポレオンの侵略から逃れるため、1808年に植民地であったブラジルに移った
王家のリオ着  

リオデジャネイロに到着したポルトガル王家一族
王家のリオ着2



ヨーロッパの国々、特にフランス、スペイン、ポルトガルは、パーティを催したり、仮装をしたり、通りで踊ったりしてこの儀式を祝いました。 これらの国々は植民地大国であったので、この伝統は「新世界」へともたらされていきました。
ブラジルの場合は幾分異なり、ブラジルを発見し植民地化したポルトガル人自身がお祭り騒ぎを好んでいたこともあり、彼らは「エントゥルード(Entrudo)」というお祭をブラジルにもたらしました。 とくに黒人奴隷たちは顔に小麦粉を塗りつけ、農園主から古いかつらやボロボロになったシャツを借りて、水や小麦粉やおしろいなどをお互いの顔めがけて投げあい三日間ドンチャン騒ぎに興じたのです。 農園主の多くは、この間、奴隷たちが自由に行動することを許し、祭を楽しむことを認めたのです。それは、一年に一度、日ごろのフラストレーションを晴らす機会をあたえ、それでもって奴隷が重労働で働かせられる農園から逃げだすことを食い止める手段になったからだそうです。
一説では、ブラジルでカーニバルらしいものが始まったのは、1808年にポルトガル王家がナポレオンから逃れてブラジルに到着した時、ブラジルに住んでいたポルトガル人たちが仮面をかぶり派手な衣装をつけ音楽を鳴らして町中を練り歩き歓迎したことが始まりだとする説もあります。
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日本語のルーツ part 4
2009-12-16 Wed 22:52
海


さて、日本のお米と古代タミル地方のお米が同じような丸い米であったということを見たあとは、民族につきものの行事を見ましょう。 大野先生は1月15日に行う小正月の行事に、日本では「ホンガ。ホンガ」と言って言えの周りをまわる行事をするところ(東北地方)があり、タミルにも「pongalo pongal」と言って言えの周りをまわる行事があると指摘しています。 そのほかにも1月14日から16日にかけて行う行事でたいへんよく似ているものがあります(行事参照
この小正月行事の比較を見ると、”なるほど~よく似ているな~”と思いますね。


◆かめ棺と子持ち土器

かめ棺とは亡くなった人をかめに入れて埋葬していたことからついた名前ですが、縄文時代には死産の幼児をかめに入れて家の入り口に埋める習慣があったそうですが、おとなをかめ棺にいれて埋葬することはしませんでした。
それが弥生時代に入ると、北九州ではかめ棺に入れて埋葬する方法が使われるようになったのです。
ちなみに「吉野ヶ里遺跡」では2千個にものぼるかめ棺の集団墓地が発掘されています。
このかめ棺に入れて埋葬するという風習は、どこから来たのでしょうか?
朝鮮には小児をかめ棺に入れて埋葬しましたが、おとなのかめ棺埋葬はまれだそうです。そして中国でもそのような風習はないそうです。
ところが、南インドでは弥生時代と重なる時期に、亡くなった人をかめ棺に入れて埋葬していたのです。それも4百、5百と同じ場所に(集団墓地)。また南インドのかめ棺と弥生時代のかめ棺の形、埋め方等の類似性を見ても南インドと弥生時代の結びつきはさらに強まるといえるでしょう。


弥生時代の日本と同時期のタミル地方では、同じようにかめ棺が使われた
kamekan

弥生時代の出土品で「子持ち土器」と呼ばれる壷があります。
なぜそう呼ばれるかというと、下の写真を見てわかるように、真ん中の口のまわりに小さな口が5つあるからです。
しかし、日本では長いことこの土器の用途がわからなかったのですが、インドの博物館(マドラス州立博物館)に大きさこそ日本の「子持ち土器」の倍以上あるものの、まったく同じ形状の壷があったのです。そしてこの博物館の壷の口には皮が張ってありました。そう、これは楽器だったのです。そしてこの楽器壷が弥生時代と同時期に南インドで使われていたのです。日本では使用目的のわからなかった「子持ち土器」の用途は南インドで判明したのです。

        子持ち土器(左)と南インドの土器楽器(右)
komotidoki-Japan komotidoki-India



◆海上の道


古代、ポリネシア人(正確には台湾原住民)が広い大洋をカヌーで何千キロも航海し、彼らの言語と文化を太平洋の広範なエリアに広めたように、タミル人たちも海上の道を使って日本にたどり着いたのです。
日本近海の海流を見ると、フィリピンの方からくる海流(黒潮)は世界的にも最も強い海流で、私達が考えているよりも速くて太い流れなのです。この海流の一部は沖縄の北で枝分かれして対馬海流となり、九州北部および朝鮮南部を通るのです。
これで、なぜタミル人たちが古代に九州北部にたどり着いたかが理解できると思います。 これは同様にタミル人たちが朝鮮半島南部にもたどり着いたであろうという説の根拠となりますね。


日本近海の海流図(クリックすると拡大して見れます)
日本近海海流

古代のタミル人たちは、このような船に乗って日本にやって来たのだろうか?
navio antigo


大野先生は、清水風遺跡(奈良県)から出土した弥生時代の土器の破片に船の絵が書いてあり、東京商船大学名誉の教授である茂在寅男(航海学者)による調査によれば、この船は片舷で18のオールをもつ全長25メートルもある大きな船だったそうです。つまり、弥生時代にはこのような大きな船がすでに使われていたということです。もし、このような船をタミル人が使って航海をしていたとしたら、古代ポリネシア人にまさるともおとらない交通手段をもっていたことになります。



日本人のルーツと日本語のルーツ

さて、長々と書いてきましたが、そろそろ日本語のルーツ探索の旅を終えたいと思いますが、その前に日本語のルーツと密接な関係のある、日本人の祖先はどこからやって来たのかという問題をちょっと見てみたいと思います。
日本人のルーツについては、興味深い資料が二つあります。

一つは国立科学博物館のサイトで、『分子レベルからみた日本人のルーツ』というページです。これを見ると日本人の先祖たちは、

①中国⇒朝鮮⇒日本
②東南アジア(?)⇒日本
③中央アジア⇒モンゴル・中国北東部⇒日本

というルートで日本へやって来たことが分かります。
また、遺伝子的に見ると(図2)、日本人と朝鮮人は兄弟みたいなものです。そうすれば琉球人は従兄弟、中国人は伯父さんになりますね。

       (画像をクリックすると拡大して見れます)
日本人のルーツ

遺伝距離


日本人のルーツ1


ただし、国立科学博物館のサイトでは〝弥生人は中国から稲作技術をもって日本に渡来した”とありますが、いままでずっと見てきている言語の問題などから、弥生人=中国人説には同意できません。


もう一つは『日本人のルーツと特徴』というサイトで、”日本人の祖先は、下記9人の母親が、殆ど(約95%)の起源”とあり、おおまかだけどその9種類の”日本人”の特徴が描かれていて面白いです。それによれば、

アジア最古(D):
中央アジア(バイカル湖西部周辺)で約6万年前誕生、日本人の34%、長寿・寒さに強い。体温を逃がさないように、皮膚や瞼が厚く、細目・小太り・胴長体型が多い。寒さから水分の蒸発を守る皮脂腺が発達した人が多い。粉耳が多い。 中央アジア・東アジア最大、一部はベーリング海峡を渡って、アメリカ大陸に到達した。

原日本人(M7):
東中国(上海・蘇州・南京周辺)で約4万年前誕生、日本人の15%、南方系に適応。古くから日本に住みついた。縄文人などのルーツ。熱を溜めにくい丸みを持つ小柄体型、丸く低い(広い)鼻、湿気の多い所で汗腺が発達した人が多い。飴耳が多い。 中国南部より、海を渡って、台湾、琉球(沖縄)、北海道、や、インドネシア、フィリピンにまで達した。

世界一の冒険者(B):
南中国で約6万年前誕生、日本人の15%、陸路(ベーリング海峡を渡って?)、南アメリカや、海流に乗って、日本や、南方は、オセアニアなどの島々、環太平洋に広く分布。

北の旅人(G(→Y)):
東シベリアで約3万年前誕生、日本人の7.5%、広く南下し、アイヌ(北海道)、朝鮮半島、中国や中央アジアにも分布。

バイカル湖発祥(A):
バイカル湖湖畔域で約2~3万年前誕生、日本人の6%、D型同様、寒冷地に適応し、東アジア(シベリア~中国南部)に広範に達した。 ベーリング海を渡り、北アメリカ先住民の祖先となった。

東南アジア最大(F):
北ベトナム・ラオス・中国国境付近周辺で約4~5万年前誕生、日本人の5%
痩せた体型、汗腺が発達した人が多い。飴耳が多い。 日本には、朝鮮半島を経由し入ってきた。一部は中央アジアにも達した。

ヒマラヤ・山岳民(M9):
ヒマラヤの山岳地帯・チベット周辺で約4万年前誕生、日本人の3.4%
日本には、朝鮮半島を経由し入ってきた。中央・東アジアに分布。

長距離冒険者(CZ、M8a):
北東アジアで約3~4万年前誕生、日本人の3.2%。
日本には、朝鮮半島を経由し入ってきた。シベリアを経由しベーリング海を渡って南アメリカや、西は北欧(サーミ(ラップ)人(氷原の遊牧民))、フィンランドまで達している。

中国起源渡来人(N9):
M7型と同じ東中国で約2~3万年前誕生、日本人の7%。
縄文以降の比較的新しい時代に渡来した民族。日本には、朝鮮半島を経由し入ってきた。粉耳が多い。



以上のように遺伝子的(ミトコンドリアDNA)に関する研究では、日本人の祖先はモンゴル系、東南アジア系に大きく分かれるようですが、ここで重要なのは日本人の祖先がたとえ中国⇒朝鮮⇒日本というルートで日本列島にやって来たにせよ、その元祖日本人(弥生時代以前の日本人)たちが使っていた言葉が即現在私たちが使っている日本語の祖先語であるという確証はないわけです。

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日本語のルーツ pat 3
2009-12-13 Sun 10:58
by Loby


稲作の技術をもつ人たちが日本に渡って来たのは紀元前10世紀ころと言われている
大海原



前回の続きで少々難しい日本語とタミル語の単語の比較です。
もう少し辛抱して読んでくださいね。

大野先生によれば、日本語は外国語を受け入れるときに“すべて名詞”で受け入れてきたそうです。
その一例としてフランス語の「いっしょに」という意味の前置詞アベック=avecは日本語に取り入れられたときに「男女のカップル」という、本来の意味から少々外れたものとなっています。
この外国語を取り入れるときに動詞でもなんでも日本語の名詞に転換するという習慣は、とくにタミル語との関係では穀物に多く見られます。

例えば、

(クリックすると拡大して明確に見れます)
動詞-名詞


タミル語で動作として表現される言葉が日本に入ったときに、その動作の結果生じる結果としての日本語になったのです。
それで前回見た《f ~v の対応表》の中の例9の「哀れ」(あわれ)は現代でも使われている言葉ですが、大野先生は最初、日本語の感動詞の「ア」と「ハレ」が結合して「アハレ」となったと考えていたそうですが、タミル語辞書で調べると「av-alam」という言葉の意味は英語では、

suffering(苦しみ)、pain(痛み)、poverity(貧乏)、weeping(泣くこと)、sorrowing(悲しむこと)、anxiety(心配)、sickness(病気)、poet, pathetic sentiment(詩では、哀愁にみちた情趣

とあり、この最後の「pathetic sentiment」という訳がまさしく日本語の「アハレ」と同じ意味になるのです。 《f~vの対応表》で見たようにタミル語の「v」は日本語のハ行の子音「f」と対応するので、日本語の「af-are」(アハレ)はタミル語の「av-alam」と対応することになります。

単語の比較はこれくらいにして、今度は日本語とタミル語の母音の比較を見てみましょう。


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日本語のルーツ part 2
2009-12-06 Sun 03:49
By Loby

前回は中国語が文法的、発音の点から日本語の祖先語ではないということについて述べました。
そして朝鮮語が文法的には日本語に類似してはいるものの、単語の対応がない(正確に言えば少なすぎる)ことから日本語からは遠い言語であるとの結論に達しました。
朝鮮語が含まれるアルタイ語には他にも、ツングース諸語(満州語、ウィルタ語など)、モンゴル諸語(モンゴル語、ブリヤート語など)、テュルク諸語(トルコ語、ウズベク語、カザフ語など)などがあります。
しかし、これらの言語も”単語の対応”がないことから日本語の祖先候補から除外するしかありません。

さて、日本近辺に日本語の源流らしいものが見つからないとすれば、ちょっと足を伸ばして少し離れたところを見なければなりません。


日本語は果たして海を渡ってきたのだろうか
海



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